副院長が忘れられない、患者さんとの思い出。笑いあり、涙あり、驚きあり、ホラーあり。是非ご覧ください。

初めての担当患者さん

初期研修医は指導医(業界用語でオーベン、といいます)のもとで診療をしなくてはいけないので、研修を終えてからはじめて「自分だけの担当患者さん」を持つことができます。

慣れない環境にあわあわしている中受け渡された患者さんの一人、それがAさんでした。

出会いはしっかり覚えています。大きい病院では、医者同士がみんなの患者さんの様子を見てどうすればいいかを考えあう「カンファレンス」というものがあります。

わたしがまだ院内に何があるのかすら追いついていない中行われたカンファレンスでAさんが取り上げられた時、同期が手助けしてくれました(他の人の問題点を確認して助け合うのがカンファレンスの目的の一つ)。

Aさんはがんを持っていて、何度も入院と退院を繰り返しました。そのたびにわたしはAさんの主治医になりました。奥さんもいつも病室にいたので、Aさんのおうちの話をたくさんしました。

家業が先祖代々続いていること、今は息子さんが切り盛りしていること、一緒に暮らしてる孫が可愛くて仕方ないということ、離れて暮らす孫が医療系の仕事に就きたがっていること…

最新の治療を施しましたが、次第にAさんの身体は弱ってしまいました。孫が小学校に入る姿を見たい…Aさんはがんばっていましたが、いよいよお別れの時が。

家業を継いでいるAさんの息子さんが来ました。かわいがっていた、Aさんのお孫さんも来ました。医療系の仕事に就きたがっているお孫さんも。

初めて会う人たちなのに、お互いがお互いのことをよく知っていました。あなたが大木先生ね、と…

二人だけだったのに、いっぱい家族が増えたねえ、とお話しながら、お別れをしました。いい医者になってくださいね、と。出会いから別れまでを過ごさせていただいた、医者になって初めての患者さんでした。

今だから話しますが、今際のときに奥さんと3人でお会いしていた際、Aさんはぜえぜえとなんとか身体を動かしながら、ロッカーをがさごそ探っていました。

そして、ティッシュを取り出し、もう丁寧な動きもできないのでグシャグシャに包んで丸めて、奥さんに渡しました。奥さんもAさんも涙ぐみながら、お願いだからどうか受け取ってください、と。

患者さんからものを頂くのはご法度の時代でしたが、どうしてもそれだけは、断ることができませんでした。

今でもぐしゃぐしゃに丸めたティッシュは、机の中にしまってあります。それより、手紙が欲しかったな、と思いながら…

君に任せた自分が馬鹿だった

初期研修中、救急外来で自分にしかわからなかったであろう病気を次々と診断し、大変調子に乗っていた頃。開放骨折かもしれない、と救急搬送された方がいました。

開放骨折とは、折れた骨が皮膚から飛び出てしまっている骨折のこと。ゴールデンタイムと言って、なるべく早く治療をすることが大切な状態です。

ただその人の皮膚には傷があるものの、棒で探っても骨には当たりませんでした。大丈夫だろう、と判断して整形外科医に連絡した自分。

その言葉を信じた整形外科医は患者さんを見て、開放骨折じゃないかと愕然。怒ることなく、君に任せた自分が馬鹿だった、と呟いたあとに緊急手術の準備をはじめました。

もう同じ言葉は聞きたくないと思った自分はもう少し謙虚になることと、苦手分野は速やかに専門の先生にお願いすることを心掛けるように。

趣味のお陰で命を救えた!

学生時代から菌の漫画「もやしもん」と感染症が大好きで、今やダイヤモンド・プリンセス号で有名となってしまった岩田健太郎教授のもとで実習をさせていただいた過去のある自分。

国試勉強のときも感染症のことはおまかせあれ、とほかのみんなに教えていました。もともと生物が好きだったことが功を奏したのでしょう。

そんな中、医者になりたてのときに配属されたのはパスポートのいらない外国、西川口。もともと吉原と並ぶ風俗街で有名でしたが、市長が規制を強化した結果シャッター街に。

そんなところな住む日本人がいない中で「東京に近いのに妙に家賃が安い街」と、外国人が住むようになったのです。

ここなら今まで勉強してきた謎の感染症があるかも…!と不謹慎ながらも心をときめかせていましたのです。

ところがいくら日本の中の外国とはいえ荒川の向こうは東京都、そんな変な病気の人はいませんでした。

言葉が通じなくてその辺ゴミだらけで不思議な食べ物屋さんが並ぶだけの街かぁ、と過ごしている中救急当番をしていたある休日。近所のクリニックから敗血症の患者さんを紹介されました。

敗血症とは、細菌による感染が身体中に広がって命の危機となってしまった状態。

そうなる前に開業医さんはあれこれ検査や治療を頑張りましたが、その甲斐なくどんどん具合が悪くなり、敗血症になったしまった、とのことでした。一般的な敗血症の対応をしようとした上司。

しかし、わたしは違和感を感じました。問診票にも紹介文にも「最近海外に行ったことはありません」と書いてある。でも、どうしても普通の病気には見えなかったのです。

何度聞いても(意識がもうろうとしながらも)外国には行っていないと言い張る患者さん。でも、どうしてもある国での風土病に見えてならなかったのです。

その患者さんは、目を真っ黄色にさせたアフリカ系の人でした。

「最後に行った海外はどこで、いつですか?」と聞き方を変えたところ、答えは一ヶ月と少し前のアフリカ。そう、マラリアでした。

あわてて感染症の聖地、国立国際医療研究センターに救急搬送。自分が感染症好きでなかったらきっとあの人は死んでいたのだろうな、と思いました。

流浪の地で産まれた命

西川口の隣町である蕨には、クルド人の難民の方たちが住んでいました。ある日、お腹をさすりながら救急搬送された人は、そんなクルド人難民の一人。もう産まれそう!と、あわてて手術室へ。

クルド人女性は宗教上の問題で女性しか身体を触れなかったので、研修医だった自分も駆り出されました。仲間のクルド人女性に手を握られながら、聞いたこともない言葉で辛そうに泣き叫ぶお母さん。

無事帝王切開で誕生した命は、世界のクルド人の数を一人増やしました。言葉も宗教も違う異国の地での生活はこれからも苦難の連続でしょう。思いがけず、世界平和を祈ることになりました。

風土病

西川口生活2年目、異なる地にも慣れてきた頃。救急外来に、新任の先生がやってきました。そして現れる患者さん。中国から家族で来たばかりという患者さんは、一家揃って咳が止まらないとのこと。

すかさずN95マスクをつける自分とスタッフ。N95マスクとは、結核のような空気感染を起こす微粒子レベルのサイズの菌やウイルスさえも通さないマスク。高級だし息苦しいのでよほどの時でない限り使いません。

何を大げさに、と語る新任の先生。今どき結核なんてそうそういるわけないだろう!しかしそこは西川口歴2年目の自分、そんじょそこらの土地と違う風土病があることを知っていました。

結局家族揃って結核だった患者さんはそのまま結核病院へ。新任の先生は、しばらく結核に怯えることとなりました。

リアルウシジマくん

三井記念病院は千代田区とはいえ一歩先は台東区、治安がいいとは言えませんでした。

社会福祉法人という貧しい人への医療を行う病院でしたので、世間一般の方が考える千代田区とは違う世界が広がっていました。そんな中お腹が痛いと入院になったのは、全身入れ墨の患者さん。

治療の甲斐あって痛みが落ち着いた患者さんは「俺は借金まみれの女をお風呂屋さんに斡旋する仕事をしてるんだぜ!」とご満悦。通院がはじまりましたがそのうち来なくなりました。

忘れた頃に警察から連絡が。「逮捕した方なのですが、お腹が痛いとのことで…」

忘れ形見と一緒に

若くして病気をして入院された方は母子家庭。お子さんが小さいからと入院を拒んでいましたが、ようやくお子さんを預けるあてができて入院となりました。

ベッドの横のテーブルには位牌。つい先日、ご主人を亡くされたばかりでした。自分一人でお子さんを支えなくては、と決意した矢先の病気。

がんばって入院してくださったので、もう起こらないように少し長めに入院していただいたのです。そんな中、位牌を眺めながらポツリとお話されました。

「あなたはいつも病院にいるわね。わたしもそうやってずっと仕事をしていた…もう結婚はいいわ、というときに夫と出会ったの。たった一年の結婚生活だったけど…結婚はいいものよ。少なくとも私には、いいものだった。」

退院のときに忘れ形見のお子さんと涙の再会、自分も生き方を振り返ることとなりました。

一人ぼっち

社会福祉法人は貧しい人のための施設。ある患者さんは身寄りがなく、健診も行かないまま。病気をこじらせての入院となりました。

すっかり弱り果てて、身体を動かすこともできなければ、ものを飲み込む力もありません。こういうときは気管にものが入らないように、食べ物を食べさせない、ということになります。

もちろんご家族の方がいらっしゃれば何かが起きるかもしれませんが、その方に会いに来る人は誰もいませんでした。動くこともできず、食べることもなく、ただ過ぎていく時間。

死んでもいいからなにか食べたい、その言葉をなんとか叶えたいと思いましたが、病院が自ら死ぬことになるかもしれないことを行うわけには行かず、そのまま遠くの療養先に行くことになりました。

普通は身寄りの人が会いやすい場所に行くのですが、いないのだったらあまり人がいない場所のほうがいいだろう、とのことです。そういう人がたくさんいる病院でした。

あけましておめでとう

医者になって初めての年の大晦日、夜通しの救急当番をしていた自分と同期。年越しそばを頼もう、と話していた中で運ばれたのが、近所の病院から手に負えないと搬送された方。

年末年始はどの病院も手薄になってしまうので、こういうことが起こりがちです。重症でしたので、手が空いた頃は夜10時前。大晦日ということもあり、とっくにどのお店もしまっていました。

当然、年越しそばの出前もありません。唯一の救いは病院の眼の前にコンビニがあったことです。

せめてお蕎麦が食べたいと、冷凍そばを買って医局(医者のたまり場)でチンして食べました(せめてもの意地で、カップそばは避けました)。

11時ちょっと過ぎ、外科の先生方が緊急手術を終えてやってきて、年越し前に終わらせた!せっかくだからお祝いだ!。みんなでハーゲンダッツを買って食べました。

なんとかいい新年を迎えられそう、そんな11時50分。猫に腕をちょっと引っ掻かれた人が救急車に乗ってやってきました。「猫に引っ掻かれたくらいで救急車…!?しかもこんな、こんな…年越し間近に!」

当時の自分は怒りん坊だったので、こんなことで救急車を呼ぶなっ!と患者さんに怒ってはみんなにたしなめられる日々でした。でも、その日だけは、誰も何も言いません。

こんな人と新年を迎えたくない…そう思い秒速で手当をしようとしようも実力及ばず、猫ちゃんが…猫ちゃんが…と言い続ける患者さんとともに新しい年が始まりました。大晦日の救急当番は、それっきりです。

今でも忘れられない叫び声

医者には「外勤」という特殊な制度が。毎週決まった日に、いつも勤めている病院とは違う場所で医者の仕事をします(当院にも大学から「外勤」に来ている先生が)。

そうやって他の病院の医療をよその病院にもたらすのです。その日は、そんな「外勤」から自分が帰ってきた日のことでした。その日の出来事を確認するためにカルテを開くと、知らない患者さんが一人。

外勤中に入院した患者さんでした。外来で精密検査をした結果、「自然に治る病気だけれど、だからといって放っておくわけにはいかないから」と入院になったようです。

時間も遅く、外来を担当した人はもういません。ひたすら痛い、痛いとのたうち回る患者さん。治るまでは痛み止めで凌ぐしかありません。

痛いと言うたびに痛み止めを使って治るときを待ちましたが、痛みは一向によくならません。念のためにといろいろな検査をしましたが、特に問題はありませんでした。

そんなある日、自分の外来日。外来の看護師さんと話している中で、「あの患者さんどうなった?」という話になりました。どうやら、入院になった日にやってきた患者さんを担当した看護師さんだったようです。

変だな、と思いました。その看護師さんはふつうの外来の看護師、救急外来の看護師さんではありません。

そして、その患者さんの痛がり方は、とてもではありませんが救急外来でないと見ないような痛がり方でした。今の状況を話すと、「そんなに痛がってるの!?普通に歩いてきたのに!?」と。

そう、外来から入院するまでの空白時間に、患者さんの容態は急に悪くなっていたのです。真っ青になって再度入院する前の精密検査をする自分。結果は、入院する前のときとはずいぶん違っていました。

手に負えない…!すかさず近所の大学病院に連絡して、転院することに。なんでもっと早く気がつけなかったのだろう。

あの叫び声は今でも忘れられないのに名前はすっかり忘れてしまって、その後どうしているかもわかりません。

忘れられた災害

ある土地に、災害が襲いました。人が何人も亡くなり、全国ニュースとなりました。わたしが赴任したのは、それから1年以上あとのことです。

初めに任された患者さんは、災害で家が少し壊れてしまった家で療養生活を送っていました。リフォーム工事が始まるので、しばらく病院で療養することになったのです。

え、今更工事!?と驚く自分に「うちもまだよ」と口々に言う看護師さんたち。ただでさえ人手が少ないのに大きな災害、1年経ってようやく復興が始まるところでした。

訪問診療で街中を巡ります。あちこちに残る瓦礫の山、今にも崩れそうな家、仮設住宅で暮らす人。そしてその仮設住宅は、新しいものではありませんでした。

そのまま車は湾岸沿いに行きます。急に土地が開けて来ました。瓦礫の街から、更地に。そのまま車は海と並んで走ります。何もありません。

そしてたまに通る「復興用車両」そう、この土地は、2回災害にあったのでした。津波が届いたところと届かなかったところに、明らかな境目が。

それに気を取られていたら、あわや事故を起こす羽目に合いました。みんなが災害を忘れても、そこはまだ被災地のままです。

突然の死に向き合うために

医者がスペシャリストになるには「剖検」といって、亡くなった患者さんの身体を調べさせていただいて、自分のしてきた医療行為と比べ合わせるということが必要でした。

その行為は専門家になるためにはとても大切なことですが、ただでさえ辛い思いをして人生を終えた患者さんの身体に再びメスを入れる行為、それに同意するご家族はあまりいません。

そんな中、なぜ急に亡くなってしまったかわからない方が。どうしてこんなことに、と嘆く患者さんに、答え合わせをする最後の手段は剖検です、とお話ししました。

来たるべくして来た死と違い、不意にその時が来てしまった人の状況を把握することは、残された方の気持ちが落ち着くことに繋がることもあるからです。ご家族は、剖検を選ばれました。

解剖室に患者さんが運ばれて、確認の時が来ます。臓器と言う臓器の重さや大きさを測って、中に溜まっている水の量も調べて、最終的には顕微鏡で一つ一つ細かく確認。

その甲斐あって、どうして亡くなってしまったかが明らかになりました。それは、自分の見立てと一致している所と、思いもよらなかったことが。めったに見ない病気でした。

それを告げたところ、それなら仕方なかったね、とご家族は納得。その経験のおかげで、今の自分があります。

いつ死んでも悔いがないように

入院はいつも突然。その患者さんは、急に具合が悪くなって入院することになりました。この病気だろう、と見立てて治療しても、具合は悪くなる一方です。

治療が間違っているのか、診断が間違っているのか…あれこれ調べるうちに、恐ろしい病気が隠れていたことに気が付きました。まだいい治療法が見つかっていない病気、そして命を奪う病気。

その人が危篤になることは、時間の問題でした。数日前まで元気だった人、なんとか助けたい。病院中の使える薬を使い切ってしまいました。それでも命は救えそうにありません。

こういうときに出来ること、そしてしなければならないことはあと2つ。1つは、万が一のときの意思確認。

医療用語では、DNR(Do Not Resuscitate)と言う言葉があります。もうこれ以上の治療が施せない患者さんの心臓や呼吸が止まったとき、無理に救命しようとしません、という意思です。

病院ではどんな状況であれ、その意思がない人にはできる限りの救命行為をします。心臓マッサージをするためには、肋骨をバキバキに折るまで胸を押さないといけません。心臓は肋骨で守られているからです。

人工呼吸器を使うためには、喉に空気を入れる太い管を入れなくてはなりません。身体の奥深くにある血管にも太い管を入れて、おしっこを出す管も。

万が一救命できたときにはいつ何が起こっているか把握するために体中にモニターをつけて24時間監視する…これが救命行為です。

元気に家に帰ることを目標とするには何をしてでも救命しなくてはなりませんが、あとは死を待つだけの方にはかえってつらい思いをさせてしまいます。

そうならないために、医者は救命行為がどんなものかを皆さんに話して、DNRの意思があるかどうかを確認します。これは本人だけの問題ではないので、ご家族の意思も当然尊重しなくてはなりません。

でも、現実を受け入れられない旦那さんは、どうにかして命を救ってほしいとDNRを拒みました。

そしてもう1つしなくてはならないことは、患者さんの苦痛を取ることです。でも、DNRでない以上は避けられないであろう未来の先につらい救命行為があることが必然でした。

そんな姿を見て、自分の苦い過去を思い出します。独り立ちしたての頃、患者さんと同じように現実を受け入れられなかった自分。過去の自分は、なかなかDNRの確認ができなかったのです。

そして仮にそうだとしても、本当に心臓が止まってしまうまではぎりぎりまでいろんな検査をしたり、注射をしたりと必死でした。その結果、苦痛を取るという当たり前のことができなかったのです。

わたしは旦那さんに話しました。今の状況が、どれだけ奥さんを苦しめているかということ、このままでは、来るべき未来にもっとつらい思いをさせることになること。

そして、旦那さんが本当に奥さんに望むことは何ですか?と聞きました。しばらくした後に、辛い思いをさせたくない、という答えが。そして奥さんに、苦痛を取る麻薬の注射が始まりました。

それまで辛くて意識がもうろうとしていた奥さんは、こんなに楽になるなんて魔法みたいね、と。旦那さんは毎日奥さんの病室に入り、今までの思い出を語っていました。

そして次第に奥さんの意識は薄れてきて、お別れの時が。先週まで二人で仲良く余生を過ごしていた旦那さんはどうしてもそれが受け入れられなくて、最後の診察に同席することを拒みました。

今までいた貧しい人たちの病院と違って、その病院の患者さんにはいつも必ず家族や友達がいて、最後の時を共に。ですからわたしが一人で死亡確認をすることは、ずいぶん久しぶりでした。

待機室で、旦那さんと親戚の方にその時間を。ぽつり、と患者さんの妹さんが話します。あの人は、昔大きな病気をしたの。その病気で生死を彷徨ったうえで人生を取り戻した患者さん。

それ以降、いつ死んでも後悔しないようにと、やりたいことを全部やったと。いろんなところに出かけて、いろんな習い事をして。その隣には、いつも旦那さんがいました。

あの人は、いつかこの日が来ることをわかっていたのね、と。自分はあと1週間の命となったときに、後悔せずにすむだろうか、そう思った1日でした。

ただの検査のつもりだったのに

病院のなかでは患者さんの命を救うことは、拒否されない限りは絶対です。ましてや、検査のための入院だったら、入院した時の姿のまま退院するのは当たり前。

それでも万が一に備えて、入院した後の万が一の時に起こる可能性のある最悪の結末を説明する必要があります。

その可能性がいかに低いかと言うこともお話ししますので、それで入院をやめます、という方はいません。それでもゼロではない限り、どこかで誰かにその時が来ることは避けられません。

明後日には帰るよ、と病院に出かけたその方が、生きて帰ることはありませんでした。いままで万が一を見たことがないような合併症の話。

それまでは、脅してはいるもののそうそうこんなことになったら誰も検査なんてできませんよと話していた自分。万が一のこともしっかり考えてくださいね、とお伝えすることの大切さを知りました。

人はいずれ死ぬ

病院に泊まり込んでいた自分は緊急コールを受けます。急変です、来てください!と慌てる看護師さん。病室に行くと、検査入院していたはずの患者さんの心臓が止まっていました。

年齢からは、いつお迎えが来てもおかしくない方。その時を自宅で迎える方もいれば、たまたま検査入院していた病院で迎える方もいます。

そんなことの予想もしていなかったので、万が一の時にどうするかの意思は確認していませんでした。ですからお迎えのときだとわかっていても、救命行為をせざるを得ません。

ご家族が到着して意思を確認するまでの間、代わるがわる心臓めがけて胸を押し続けました。弱々しい肋骨が折れた感覚が。肺に刺さったかもしれません。

いつその時が来てもおかしくないのは病気でも病気でなくても同じなのだから、普段からいざというときの話をすることは大切だと実感しました。

忘れた初心

初めて人をお看取りしたのは医者になって2か月目のとき。1か月ほど一緒に病と闘ってきた患者さんでした。

夜中に指導医から、仲良くしていたから一緒にお見取りする?と電話がかかってきて、死亡確認をすることになったのです。それから時がたち、今度は自分が研修医の上に立つことに。

息も絶え絶えの患者さんを確認した後にご家族を呼んで、今が臨終のときですとお話しして、その呼吸が止まったあとに最後の診察を行いました。何度目の死亡確認かはもうわかりません。

でも、誰だって初めてのお看取りの時は来ます。経験者のお別れ方を見て、学ばなければいけないのです。かつて夜中に病院に走った自分のように。

医者になったばかりの研修医とともに時間を告げた後、病室を後にしました。研修医の目には涙が。自分があの人とお別れした時はどうだったっけ。思い出そうとしましたが、いまだに思い出すことはできません。

もう帰れないとわかっていたら

お腹が痛い、と外来にやってきた患者さん。調べると、いつ亡くなってもおかしくない状態でした。もちろん、すぐ入院して治療する必要があります。

そんな急に言われても、一旦家に帰らせてほしいとみなさんおっしゃいますが、その数時間の間に亡くなってしまったら、周りの人も自分も一生後悔するでしょう。

ですからその患者さんも、帰宅することなく病室に行くことに。しかし治療の甲斐なく、生きて病院を出ることはできませんでした。

そうとわかっていたら、最後にお家に帰ってもらった方がよかったのかな、とありもしなかったことをぼんやり考えたのです。

奇跡のような話は偶然ではない

旅立ちの日が近づいている中、お家でその時を待つことに決めた末期がんの方。訪問診療といって、病院に通えない患者さんの家に医者が直接診療をする医療を受けることになりました。

その方と親交があった自分は、家にお見舞いに行きたいと話します。経験上、いつその時が来てもおかしくないとわかっていたからです。

なるべく早く会いたかったけれど、指定された期日まで話したくないと言われてしまい、その日を待っていました。いざ再会できる日、その方の家に急ぎます。玄関が見えた時に電話がありました。

急におかしくなってしまったの、と家族の方から。急いで家に入ると、もう会話することができず、いつ息を引き取ってもおかしくない姿の方が待っていました。さっきまでわたしの来訪に備えていたのに。

もうできることは、なるべく苦痛を和らげること。その場で出来る限りのことをして、ご家族との時間を過ごしていただくことになりました。

あの時あなたが来てくれてよかった、自分達だけではなにもできなかった、と涙ぐんで感謝するご家族の方。

あなたと話をしたかったのではなく、後は頼んだということだったのかしら。そうかもしれませんね、このタイミングで自分が来たのは奇跡でしたね、と。

でも自分はどうしてその奇跡が起こったのかわかっていたのです。それまで人と会うことを拒んでいた方でした。初めての来客であるわたしに備えて、具合が悪い中緊急時用の薬を使ったのです。

それは苦痛を和らげるための薬。その薬そのものが寿命を縮めることはもちろんしませんが、なにがきっかけで危篤になるかわからない人の時計の針を進めるには十分だったのです。

いつか来るべき未来の中、その相手が自分であったことは良かったのかな、と思いました。

医学の発展のために

その患者さんの病気は、今の医学では治すことが出来ませんでした。やがて来る死に備える日々、どうしてもその方にお願いをしなくてはならないことが。

医者が一人前になるには、そして一人前になった医者も、よそではあまり見ない患者さんがどういう経緯でどんな結末を迎えたか、ということを学会で発表して情報を共有するということが大切なのです。

そして、その患者さんに起こったことは、自分がその登竜門を突破するのに十分な出来事でした。ご本人の意思が確認できるうちに、ご家族とともにお話しします。発表してもいいですか、と。

同意書にサインをしてもらったとき、一緒に手紙が添えてありました。自分の経験が少しでも、医者を育てて医学を発展することに繋がりますように、と。

今の医療はいろいろな研究や論文をもとに培われた確かな実績のある医療を行う、EBM(Evidence Based Medicine)が主体です。

そういった研究は、このように協力してくれた患者さんの積み重ねで行われています。医学の発展を願う気持ちは同じです。たとえ自分がその恩恵に預かれなくても。

命を救うゲーム

わたしがまだ大学生になる前、膨大な情報を解析する「スーパーコンピューター」がまだ未熟だったころ。2ch(今は5ch)という巨大な掲示板の集まりでは、とあるゲームが流行っていました。

使っているパソコンの余力を使って、ある鍵穴にはまる鍵を見つける作業をさせます。そしてどれだけその鍵がみつかったかでチーム争いをするゲームでした。

世界中を巻き込んだこのゲームで常に一位を独占していたのが「Team2ch」。その中には、更に掲示板ごとのランク争いがありました。

その鍵探しゲームはどういう理屈かわかりませんが、白血病を治すということに繋がるという話。そんなことで盛り上がったことはすっかり忘れ、大学ではがん治療の講義が始まりました。

昔のがんの治療薬といえば、健康な身体もダメージを受けてどんどん体が弱り、髪の毛もどんどん抜けて、げっそりしてしまうもの。

最近は悪さをしているがん細胞の特徴的な部分(分子)だけを標的にして、健康な身体を傷つけない治療が進んでいる、と言うお話でした。

いまではがん以外のいろいろな治療、当院でも花粉症からアトピーまでいろいろな病気に使われる薬、「分子標的薬」の始まりです。

特徴的な部分にぴったりはまるような形をした薬を自由に作ることができようになったことで実現。

このことを知った自分は、アレルギーを起こすIgEという物質を標的にしたら花粉症が治るのでは!?と友人に話し、それができたらすごいねーと盛り上がりました。

そんな簡単に思いつくことはすでに研究中で、当院でも使われる薬「ゾレア」に。今もどんどん研究開発が進んでいる分子標的薬は、医学界を根本的に変えてしまいました。

そんな新技術を使っている中で、ふと2chのことを思い出したのです。どういうものかは覚えていないけど、チーム対抗戦で盛り上がった何かがあったっけ…。

「Team2ch」で検索すると、新薬開発プロジェクトのページが出てきました。コンピューターを使って特定の分子だけを標的にした薬を「鍵穴にあった鍵を探す」という形で開発するというプロジェクト。

それによって誕生した薬のひとつが白血病の特効薬で、授業で習った最初の分子標的薬「イマチニブ」(商品名グリベック)でした。

スーパーコンピューターが十分でなかった時代。一人一人が持つパソコンの力を少しずつ借りて膨大な情報を解析するという試みが行われました。ドラゴンボールの元気玉のような企画です。

これがあの、チーム対抗ゲームの正体でした。治らなかった病気を治した新薬を作ったのは、2chにいた誰かだったのかもしれません。

もう少し一緒にいたかった

何度も入院と退院を繰り返していた患者さん。最後の退院ののちに、昏睡状態になって病院に戻ってきました。目が覚めた患者さんは大泣き。それが何を意味するかを分かっていたからです。

それから数日後、病室に家族が集まりました。程なくして脈打つ心臓のモニターが平らに。脈を打つことを終えた、という印です。病棟の看護師さんがわたしを呼びました。

その時わたしは離れたところにいましたが、モニターが平らになったと同時に待ってましたとばかりに病室に飛び込むのも無粋だと思っていたので、ゆっくり向かうことに。

到着したときには、少なくともコールから5-10分は経っていたでしょう、モニターは平らのままです。病室に入り、最後の診察を始めました。胸の音を聞かせてください、と聴診器を胸に当てます。

心臓の音が聞こえないことを確認することが死亡確認の条件の一つ。でも、耳を疑うことが起こりました。心臓の音が聞こえるのです。ハッとモニターを見ると、平らだったモニターが脈を打っているのです。

0だった心拍数が、40くらいになっていました。こんなことは聞いたことがありませんでしたが、事実をありのままに受け止めるしかありません。

「もう少し一緒にいたかったんですね。」と言い、病室を後にしました。今でも心電図が止まっても、しばらくしないと死亡確認ができません。

最後の挨拶

人が危篤状態になってから心臓の動きが止まるまでの時間は誰にもわかりません。それでも、その人の近くにいなくても、「予感」がすることがあります。だいたいが真夜中、寝ている間のことです。

はっと目が覚めて、なんで今目が覚めたのだろうとまた眠るのです。もしかして、またかなと思いながら。

次の日病棟に行くと案の定、患者さんが一人ものも言わず退院されていました。そんなことが、たまにあります。

謎に包まれた依頼人

ある時、とても偉い人から連絡がありました。懇意にしている人を入院させたいから主治医になってくれ、と。

面識はない人でしたが、とても偉いことはわかっていたので、断ることもできずに依頼人を入院させることになりました。ある難病を持っていた中で、調子を崩してしまったようです。

偉い人のもとで、VIP病棟(大きい病院にはこういうものがあるところも)に入ることになりました。程なくして、面会者が現れるように。

あまり親しくはなさそうなその人達は、なんだか見たこともないような異様な雰囲気を醸し出していました。病室から出たあともロビーにいて、なんとなく威圧感と視線を感じる毎日。

わたしはピンときました。これは…マスメディア!?母校順天堂のVIP病棟ではたくさんの有名人が入院していたのです。そしてその事実は決してよそには、同じ病院の医者にすら知られることはありませんでした。

そこまでセキュリティが厳しくなさそうなその病院を嗅ぎつけたマスコミなのでは?検索してみると、確かに名前を知らなかった有名人。

病棟のスタッフにその憶測を伝えて、絶対情報は漏らさないように、と通達しました。その動きを察したのか、ついにマスコミ疑いの人から話しかけられることに。

病気の様子を聞きたい。そんなことを言われても守秘義務があるので、患者さんの同意なしに話すことはできません。すると…

ここから先は想像におまかせします。

忘れじのスコーン

初期研修を終えて、独り立ちしたての頃。今まで体験したことのないくらいたくさんの患者さんを、一人で担当することになりました。

そして入職直後のカルテすらろくに使えない時にいきなり病棟すべてを任された当直では患者さんが急変、いきなり高度な治療が必要に。

寝不足の中、今まで一人ではしたことのない患者さんの検査や治療を指示する日々。日にちが変わっても仕事は終わりません。

更なる寝不足の中、ものを考える力もどんどん衰えて、帰る時間もどんどん遅くなっていきます。日曜には疲労困憊、それでも刻一刻と変化する患者さんの容態に併せて指示を出さなくてはなりません。

上の先生にもう無理だと話そう…そう思うと、思わず涙が出てしまいました。すると何かを察した看護師さんが、チョコスコーンを。久しぶりに甘いものを食べながら、もう少し頑張ろう、と思ったのでした。

寂しい余生

御年100歳越えた方は患者さんどころか人生で初めてお会いしました。とても厳しい病気を乗り越えて、あとはリハビリ目的の病院への転院待ち。

弱ってしまった身体を鍛えるための、最大6ヶ月のリハビリ生活の始まりです。でも、患者さんは弱々しくなりながらも退院したい、と話しました。

友達も息子も死んでしまった。生きてても寂しいだけだから、もういいよ、と…

そうは言ってもご家族(お孫さん)の希望があって、リハビリ病院で頑張ったあと、歩いて退院されたようです。

スマホ世代

80歳を越えた方で、入院生活の後に元気になって無事退院となりました。ただ、普通の高齢者の方にしては違和感が。病室に行くと、いつもスマホをポチポチしているのです。

若い方にはありがちな光景ですが、当院院長すらスマホを使いこなせていないレベル、ましてやここまでのお年の方でスマホ生活を送る姿は見たことがありません。

患者さんは嬉しそうに言いました。今、ラインで退院したあとのお祝い会の調整をしているの。いちいちやりとりしなくても日程調整機能があればすぐ日にちが決まる。

どこに行きたいかは投票機能を使えばあれこれ話し合うこともない。それに、ラインペイを使えば何時どれだけお金を使ったか記録できるの!

当時はキャッシュレス決済黎明期だし、日程調整や投票機能なんて使ったことがありません。新しい技術は常に取り入れないと、とわたしもラインを開くのでした。

楽しいサイクリング

新しい赴任先では、楽しみにしていたことがありました。ロードバイクを買ったのです。車がない自分にとって、ロードバイクは大切な移動手段になるかな、と思っての奮発購入でした。

初めて乗るスポーツバイクはスイスイと山道すら登ることができます。ある日、ずいぶん早く目が覚めてしまいました。日が早く出る時期、二度寝もできそうにありません。

よし、サイクリングに行こう!山道を登って、どんどん山奥に進みます。温泉宿を通り過ぎて現れたのは美しい山と川の景色。なんて素敵な朝なのでしょう。

それから早く起きたときはロードバイクに乗る日々。ある日、自転車が好きな患者さんが入院しました。

わたしもロードバイク乗ってるんです!と言いながら写真を見せると、「早朝は熊がいるから気をつけな」と。朝のサイクリングは、それ以来していません。